大津一貴 オフィシャルブログ『Special One』

プロフィール

 
  2018/10/05

プロフィール

名前:大津 一貴(オオツ カズタカ)

生年月日:1989年10月25日

出身地:北海道札幌市

身長:172cm

体重:63kg

血液型:O型

利き足:

足のサイズ:25.5cm

ポジション:MF、FW

経歴

札幌市立山の手小学校(山の手サッカー少年団)

札幌市立琴似中学校(SSS札幌サッカースクール)

青森山田高校 サッカー部

関東学院大学 サッカー部

2013-2014 T.F.S.C(東京都リーグ)

 

2015 FC Ulaanbaatar(モンゴル)

 

2016 Three Kings United(ニュージーランド)

 

2017 Kamphaengphet FC(タイ)

 

2018 FC Ulaanbaatar(モンゴル)

 

これまでの人生

 

誕生~小学校

1989年10月25日に北海道旭川市にて誕生。

でも、生まれてすぐに札幌で育ったため、いつも出身を聞かれた際は「札幌出身」と答えている。

小さい頃から体を動かすことが好きで、サッカーに限らず色々なスポーツをしていた。

運動会では6年間リレーの選手。

体育以外ではあまり目立てないので、ここぞとばかりに運動会は毎年張り切って臨んでいた。

そんな大津少年の人生が大きく変わったのは、小学校3年生の時。

友達に誘われて入ったサッカー少年団で、本格的に競技を始める。

この頃から、サッカーが生活の一部となり、どんどんサッカーにのめり込んでいく。

初めて見た98年のワールドカップで、日本代表が全然勝てない姿に衝撃を受け、世界のサッカーに興味が沸いた。

ベッカム、ジダン、デルピエロ、ロナウジーニョ、中田英寿…

当時の僕のアイドル達のプレーを見て「自分も将来は海外でプロサッカー選手になりたい!」と夢を抱いた。

 

中学時代 北海道No.1チームへ

夢見るサッカー少年達が中学校入学の際、みんな悩むのは【部活】or【クラブチーム】どちらでサッカーを続けるか。

僕は、この頃から本気でプロサッカー選手になりたいと思っていたので、本気でサッカーに打ち込める環境(=クラブチーム)に行きたいと考えていた。

小学生時代、自分が所属していたチームとは別に、練習だけのコースがあるSSS札幌サッカースクールに通っていた僕は、そのチームのジュニアユース(中学生部門)のテストを受けて無事合格。

北海道で1番歴史があり、毎年北海道大会では1.2番を争う実力のあるクラブチームだ。

そのような環境でサッカーをさせてもらえたおかげで、中3の頃には北海道選抜等に選出される選手となった。

この勢いで、僕はプロサッカー選手になれると本気で確信していた。

後に、そんな現実は甘くないと思い知らされる…

お世話になった、現在のSSS札幌サッカスクールの施設

 

高校時代 挫折

お正月にテレビ放送される、全国高校サッカー選手権大会(以下、選手権)を見て、いつもその舞台に憧れていた。

「きっと、俺は選手権で活躍してプロになるんだろうな」と想像を膨らませていた。

中学卒業時、ありがたいことに地元のコンサドーレ札幌ユースから声を掛けてもらっていたが、どうしても選手権への憧れを捨てることができず…。

中学時代の先輩が進学していた繋がりもあり、津軽海峡を越えて青森山田高校へ行くことを決めた。

毎年、青森県では必ず優勝して全国大会に出場している強豪校。

ここでレギュラーを勝ち取れば、憧れていた選手権が待っている。

その想いで入学したが、『○○選抜』とか『U-○○日本代表』という肩書きをもっている選手達が全国から集まってくる環境。

当然、レギュラーになることは容易ではなかった。

しかも、僕が在学していた当時の部員は100人を越える。

なのに、試合に出れるのは11人

1、2年の頃は、試合どころかベンチ入りできるAチームにも入れず。

更に、親元を離れての寮生活もキツかった。

1年生の頃は、個人スペースが1人一畳分だけの10人部屋での生活。

門限は19時で、携帯電話の使用は22時まで。

毎日6時頃から朝練もあって、とにかくキツかった記憶しかない。

 

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憧れの選手権の舞台

結局、3年生になった最後の選手権で、なんとかギリギリでメンバー入り。

途中出場で試合に出場するも、初戦敗退。

僕が憧れた選手権の舞台は10分で幕を閉じた。

それと同時に、プロサッカー選手になるという夢が、とても厳しいと現実を突きつけられた3年間。

更に、この3年間はサッカーが嫌いだった。ボールを見るだけでも嫌だった。

「地元の友達は楽しい高校生活を送っているのに、なんでこんな辛い想いをしてまでサッカーをしなきゃいけないんだ!?サッカーって楽しいものじゃなっかのか?」と、いつも自己嫌悪に陥っていた。

小中学校時代、日が暮れるまでボールを追い続けていても、楽しすぎて飽きなかったのが、サッカーだったはずなのに。

たった10分で終わった、憧れの舞台

 

大学時代 もう一度サッカーが好きになるが…

サッカーが嫌いだった高校時代だけど、サッカーを辞める勇気が自分には無かった。

高3の夏にセレクションを受けた関東学院大学のサッカー部。

練習参加させてもらった時に、後に先輩となる大学生達が、とても楽しそうにサッカーをしている姿を見て「自分もここでなら、もう一度サッカーを楽しめるかもしれない!」と、直感的に感じた。

運良くセレクションに受かり、横浜にある関東学院大学へ入学。

自分の直感は当たっていて、もう一度、純粋にサッカーに取り組むことができた。

勿論、キツい合宿や練習もあったけど、チームの仲間達と一緒に同じ目標に向かってサッカーをすることが、当時の僕にとっては凄く楽しかった。

入学当初は神奈川県リーグに所属していたが、2年生時に行われた関東リーグへの入れ替え戦、僕のゴールで関東リーグ昇格の切符を手に入れた瞬間はとても最高だった。

関東リーグ昇格

 

怪我と就職

高校時代とは違い、1年生の時から試合には出場させてもらっていたし、2年生の時にはチームで1番多くゴールを決めていた。

次第に「卒業してからもサッカーを続けたいな…」と思うようになってきた。

続けるからには上のカテゴリーでやりたいし、チームが関東リーグに上がったことで、Jリーグ関係者のスカウトも試合を見に来るような環境になった。

でも、大学3年生の時に、右足第五中足骨を骨折し手術

学年が変わった4年生時に復帰したが、すぐに足首を負傷

やっと治ってコンディションも上がってきたところで、今度は肋骨骨折

それでも諦めずにリハビリを続け、関東リーグで復帰ゴールを決めた直後に半月板損傷

 

 

 

 

僕の大学サッカーは怪我で終った。

同時に、僕のサッカー人生もここで終了した。

 

 

 

最後の方は、半月板の損傷により曲がらない膝を無理やり曲げて、テーピングをガチガチに巻いてプレーしたけど、結局は手術

生まれつき特殊な半月板の形をしていたので、全治1年

サッカーを続けたい気持ちとは裏腹に、大学卒業を迎えた。

 

怪我の期間が長かった為、練習に参加できない時間を使って就職活動をしていた。

卒業後は東京都多摩市に本社があるホームテック株式会社への内定が決まっていた。

”試合で活躍してオファーをもらって、内定を辞退する!”

誰にも言わず、ひそかに抱いていた野望は儚く散って、引退を迎えた。

勝手に作った自作の横断幕。雑草のように粘り強く頑張ったけど、夢は叶わなかった。

 

サラリーマン生活 人生最大の危機

大学を4年で無事に卒業し、2012年4月に入社。

僕が入社したホームテック株式会社は、西東京、神奈川、埼玉エリアを中心に展開する住宅リフォーム専門の会社。

営業職として、聖蹟桜ヶ丘に事務所を構える多摩店に配属された。

初めての社会人生活は、正直かなり忙しくて、精神的にも肉体的にもキツいと感じていた。

それでも、先輩社員の方々に助けてもらい、同期メンバーと励ましあいながら、慣れない仕事と自分なりに向き合って頑張っていたと思う。

そして、やっとの想いで迎える休日。

でも、その休日には大学時代に負った半月板損傷の影響で、膝に溜まる水を抜くために毎週病院へ向かう。

膝に打つ注射はめちゃくちゃ痛かったけど、それ以上に大好きだったサッカーをしていた時を思い出してしまい身体より心のダメージの方が大きかった。

それに耐えられなくて、1ヶ月くらいで病院に通うのは勝手に辞めた。

 

そんなサラリーマン生活を過ごしていた初めての夏、僕の身体に異変が起きる…。

入社1年目、イベントにて

 

キン○マが腫れてる…

会社から帰宅後、シャワーを浴びている時に異変に気付いた。

「なんか片方だけキン○マ腫れてるな…」

でも、何か心当たりは無かったし、痛くもないし、痒くもないし、時間が経てば治ると思って、特に気にしなかった。

 

異変に気付いてから約一週間後、地元の友達が東京に遊びに来ていたので、一緒に飲みに行った。

酔っ払った勢いもあり、笑いのネタの1つになればと思い「おれ、いまキン○マ腫れてるんだよね!」と言ってみた。

その友達は「しっかり病院行った方がいいんじゃない!?」と、真面目にアドバイスをくれた。

その日の飲み会は楽しく終わり、電車で帰る際も『まあ病院に行ったところで、薬とかもらっておわりだろうな~』ぐらいにしか思っていなかった。

なので、それから実際に病院に行ったのは約1ヶ月後

しかし、病院でとんでもない事実を伝えられる…

その日の飲み会での一枚

後に、両隣に居る二人が命の恩人となる…

 

22歳で癌宣告

結局腫れが治らないので、ようやく近所の泌尿器科へ行った。

「うちでは診断できないから、すぐに大学病院で検査しなさい」

医者から言われるがまま、紹介状を片手に大学病院へ。

血液検査やCT検査など沢山の検査を受けた。

その後、ずいぶん早く診察室に呼ばれたので、ちょっと嫌な予感がした。

 

 

 

医者から告げられた診断は【精巣腫瘍】という名の悪性癌

 

 

 

人生で初めて、頭が真っ白になった。

 

 

そして、何をどうしていいのか分からず、なぜか笑っている自分がいた。

 

 

「とりあえず、親と会社の上司に電話します」と言って病院の外に出て見上げた、雲ひとつ無い7月の青空を鮮明に覚えている

「なぜ自分が…」

色々な感情がぐちゃぐちゃとなり、その場に立っていられず、病院の外壁にもたれ掛かりながら、まずはこの事実を受け入れようと必死に自分の心に言い聞かせた。

 

リトル大津に聞いてみた

幸い、早期発見ステージ1。

ということで、摘出手術と予防を兼ねた放射線治療で一命を取り留めた。

「発見が遅ければ明日死んでいたかもしれない」と医者から言われた一言が、今でも忘れられない。

ただ、もし本当に明日死ぬとしたら…と病院のベットで考えた時、1番最初に頭に浮かんだのがサッカー

小さい頃からプロサッカー選手になることを夢見てきたのに、それを叶えずに死んだら絶対に後悔する

そして、サッカーが大好きで続けてきたのに、怪我、就職、世間体、お金、環境、と言い訳を作り、できない理由を並べ、夢を諦めたのは自分自身だったということにも、この時はじめて気付いた。

自分が心の奥底から、潜在的に求めているのは、サッカーをプレーする大津一貴の姿。

心の中に居るリトル大津に尋ねたところ、「サッカーしてぇー」と叫んでいました。

『病気を治して、もう一度本気でプロサッカー選手を目指す!』

手術前日、ベッドの上で決意。

当時22歳だったけど、その時の自分は怪我、就職、世間体、お金、環境、は全く気にならなかった

 

夢への再挑戦

『プロサッカー選手になる!』

と決意はしたものの、放射線治療の副作用で体重は約10㎏落ち、大学時代に負った膝の怪我で膝は曲がらないまま。

働かなければ生活していけないのが現状だったので、体調が落ち着いた3ヵ月後には復職した

こんな状況だったので、当時はほとんどの人がサッカーをすることに反対だったし、真剣に話しも聞いてくれない始末。

自分の気持ちだけが空回りする日々の中、思い切って当時は違う部署だった会社の上司の方に相談してみたところ、意外な反応が返ってきた。

 

「応援するし、できることは協力するよ!」

 

多分この時が、僕の2度目のプロサッカー選手への挑戦を、はじめて真剣に応援された瞬間だった。

年度が替わるタイミングで、僕はその上司の方が居る東京都府中市の店舗へ移動。

本格的にサッカー復帰へ向けてリハビリの日々がスタート。

特別何かを優遇されていた訳ではないが、応援してくれる人が側に居るということが、サッカーにも仕事にも大きなモチベーションとなった。

 

ようやくサッカーができるような身体になってきたタイミングで、営業先のお客様の繋がりから、運良くT.F.S.Cという東京都リーグに所属する社会人チームを紹介してもらい、2013年の秋、本格的に競技復帰。

復帰当初はイメージ通りに身体がついてこなくて、プレー面ではうまくいかないことも多かったけど、またグラウンドの上で大好きなサッカーができる喜びや幸せの方が強かった。

徐々にコンディションも上がってきたところで、プロサッカー選手になるためにはどうするべきか?現実的に考えてみた

社会人リーグにて競技復帰

 

セレクションからモンゴルへ

・日本のJリーグは可能性はほぼゼロだろう

・当時所属していた社会人チームはJapanの8部にあたる。うーん、やっぱ日本では無理だ。

・そう考えると、憧れていたヨーロッパも厳しいな。

・うん、狙うはアジアだ。

 

こんな感じで、日本から脱出しようと決意を固めた2014年の12月

そのタイミングとちょうど運良く重なって行われた、東京開催のセレクションにチャレンジ。

 

 

その結果、モンゴル1部リーグのFCウランバートルに入団が決定

念願のプロサッカー選手という夢をついに叶えた。

 

3年間一緒に働いた同期のみんなが送別会をしてくれた

 

2015年3月に会社を退社し、極寒の地モンゴルへ。

マイナス20℃の気温の中で練習が行われるような厳しい環境だったけど、ついに迎えた5月の開幕戦。

試合前の整列時にモンゴル国歌を聞きながら、癌と告げられた日と同じ、雲ひとつ無い青空を見上げて「やっとここまでたどり着いたのか…」という想いから涙を流したことは一生忘れない。

周りの選手にばれないように涙をぬぐってキックオフ。

その20分後には、プロ初ゴールを決めて、試合にも勝利。

更に一生忘れられない日となった。

開幕戦でゴールを決めた瞬間

 

『スペシャル・ワン』になるために

25歳にして、ようやく僕のサッカー選手としてのキャリアがスタートした。

モンゴルでプレーした翌年はニュージーランド

その翌年はタイ

そして、今はまたモンゴルでプレーしている。

どこの国でプレーしたい!というこだわりは特に無い。

自分を求めてくれれるチームがあるなら、どこへでも飛んでいくつもりだ。

それは、純粋に色々な世界を見てみたいという気持ちがあるから。

そして、大好きなサッカーができるということが、当たり前ではないと気付いたから。

自分の知らない世界を見たり、新しい出会いや発見があったり、サッカー選手としては勿論、1人の人間として成長していく感覚が楽しい。

そして、自分が経験してきたこと感じてきたことを、少しでも多くの人達に伝えていきたいし、共有したい。

それが、自分の目指す『スペシャル・ワン』にも繋がってくると思う。

まずは自分が、自分の好きなこと(=サッカー)で本気で戦い、自分の目標に向かって走り続けることが1番大切だと信じて、プレーしている。

 

サッカーができる喜びを全力で噛み締めながら。

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